2023年9月17日 (日)

本357…マカールの夢

マカールの夢…ウラジミール・コロレンコ著

ほら吹きで飲んだくれの主人公マカール。或る日、冷たい吹雪の荒野に力尽き倒れ死んだマカールは、善良な僧であったイワンに連れられ主の下へ。始めは自分の行ってきた事に言い訳しながらも恥じ入りしどろもどろだったマカールが、何かに吹っ切れたかの如く別人の様に語り訴える。盲目的な絶望の中、惨めな日々の連なる己の生涯をくまなく振り返り、何故今迄この恐ろしい重荷に堪え得たのか、その先に雲間の星の様な期待が僅かに見えていたからではなかったか…

その幻想的な色彩の内に語られる誤った生活機構に対する社会的憤怒の感情と鋭い抗議が訴えかけてくる。その根本的な、苦しい労働も、恐ろしい大寒も、厳しい生活の結果身に付いた野生も、遂にマカールの内に消せなかった「期待」。それが特に最後の裁きの場面に集約される。

マカールの夢というより、必ず来るべき社会的公平の勝利を象徴する著者自身の「夢」と云われる。他作でも苦渋な運命にも打ちひしがれる事無く、常に正義と自由を渇望して止まない人々の姿に、60~70年代のロシア民主主義文学の伝統が受け継がれている。当時知識人に普及していたトルストイの無抵抗主義に対する痛烈な批判も同じ信条に基ずくもの。

|

2023年8月26日 (土)

本356…六号病棟

六号病棟…アントン・チェーホフ著

田舎町の精神病院で、院長を務めるアンドレイ。知性と誠実さの人だが、気弱さと厭世の受身思想から院内の劣悪な環境等の改革は出来ず。周囲は俗悪な輩ばかりでまともな会話すら出来なかったが、隔離室の六号病棟に、没落貴族の末裔のイワン(持ち前の神経質とお臆病さが高じて、強迫神経症)を知り、毎日の様に訪ねては観念的な哲学談義をする。

その内、院長自身が精神異常だから、一人の患者と延々と訳の分からない会話をしているのだと病院中の噂になる。アンドレイは療養と称した気の染まぬ旅行に連れ出される。帰ってみるとそこに職は無く、自分の補佐をしていた男が後釜に。彼に謀られて六号病棟に押し込められ、余りの環境に抗議した為番人に殴りつけられ…程なくして卒中で落命する。

自分とは、生きるとは、社会のあり方とは、正気と狂気の違いとは…「人間の安らぎと満足とは、外部になく自身の内部にある」としてきたアンドレイが、閉じ込められた不自由さに狼狽え、自身の思想の敗北を知る…蝕まれてゆく医師の正論は、あたかも当時の絶望的な世相を暗示しているかの如くである。

著者も医師でその観点から描かれている。

 

|

2023年7月21日 (金)

本355…赤い花

赤い花…F・ガルシン著

癲狂院の庭の片隅に咲く3本の赤い罌粟の花。それを社会悪の化身と考えた狂気の主人公。

時間と空間の外に生きていると語る、ほぼ寝ずに院内を激しく動き回り、やがて瘦せ細り…人類をこの悪から永久に解放しようとして、その赤い花を1本ずつもぎ取り、悪を我が身ひとつに受け止めながらその毒気に打たれ狂死…という狂気と幻想の世界を浮き彫りにしたもの。

自らがハリコフの癲狂院に入院した時の体験を基に、当時のナロードニキ(人民主義者)の自己犠牲の精神を象徴的に描いている。極度に研ぎ澄まされた鋭敏な感受性と正義感の持ち主であったガルシンには、汚濁に満ちた浮世の生は到底堪え得るものではなかった。飛び降り自殺を図り、その怪我が下で死に至る。怪我の痛みは胸の痛みに比べれば何程でもないと言い残し…享年33歳。

|

2023年7月 4日 (火)

本354…変身

変身…フランツ・カフカ著

販売員のグレゴールは親の借金返済と家族を養うため過酷に働くが、ある朝、巨大な虫に変身していた。出勤しない彼を上司が訪ねて来るが、彼の姿を見て逃げ出す。

グレゴールは部屋から出られず引き籠る。始めは妹が世話をしてくれていたが、その内家族は倦み出し邪険に扱うようになり、部屋貸しをしたりして彼無しで生活を楽しみ始める。間借り人が待遇の悪さやグレゴールの存在に気付き、家族は不都合で重荷になった彼をを見捨てるべきとする。

グレゴールは、父親の投げつけたリンゴの傷がもとで飢えも重なり死亡。亡骸はお手伝いさんによって片付けられる。家族は解放され、未来に希望が持てるとして、娘の婿探しをしようと話し合う。

最重要存在であったグレゴールが、無用の(寧ろ厄介な)存在となる。グレゴールの家族への思いと、家族の彼へのそれとは同じではない。実際のカフカの人生に重なる事多々であったようだ。

人間の存在の意味や孤独。家族や社会との関係性…

不条理文学の一翼。

|

2023年6月11日 (日)

本353…ジーキル博士とハイド氏

ジーキル博士とハイド氏…R・ルイス・スティーヴンスン著

19世紀初頭のロンドン。女児を踏みつけにした凶悪そうな男(ハイド)。社会的名声の高いジーキル博士。悪の化身の様なハイド。ジーキルの旧友であり弁護士であるアッタスンが、彼の遺言状の不可解さ(自分に何かあればハイドに遺産を譲る)から関わり始める。ジーキルの振る舞いも段々と変わっていき、ハイドの殺人などがあり、ジーキルの自殺と共に残された手記で真相が明らかに。

ジーキルには抑えることのできない背徳的な快楽癖があり、体面上二重生活を送っていたものの耐えきれなくなり、自分の要素(善と悪)を分離する薬を作り別々の個体を生み出すが、やがて薬をコントロールできずに破滅へと向かう。

人生は不愉快である、と達観しながら、互いにそれを内心に潜めて相互了解のもとに生きていく(コモンセンス)ものだが、不愉快を締め出そうとしても殺しきる事はできず、内に耐えることで一層不愉快になる。それは精神の内部で化膿し、腐爛する。犯罪はこの腐敗の爆発であるが、内心の膿を切開し爛れを癒せれば快感(カタルシス作用)となる…

|

2023年5月22日 (月)

本352…幻想を追う女

幻想を追う女…トマス・ハーディ著

避暑地の仮住まいを始めたマーチミル夫人・エラは、そこが尊敬する詩人の普段の住いだと知り、自身も詩を書き掲載された事もあるため一気に運命的なものを感じてしまう。家主の女将から写真を見せられ、その詩人トルーに恋焦がれ始める。手紙を送った事でやり取りもするのだが、いつもすれ違ってしまい逢えず仕舞い。その後、トルーがある女性に向けた愛情を書いた詩を酷評され自殺。女将に頼み詩人の写真と遺髪を得るものの、堪らず墓地を訪れ縋って泣くエラは夫に連れ戻される。商才はあるが文学を解しない行動的な夫と、少女の如き繊細さで詩を綴る妻。トルーの遺書から、書かれた幻の女性がエラと想像できるものの、彼女は詩人への愛という幻想を失い、体調を崩し四度目の出産で死ぬ。トルーとエラの関係は逢ったことの無いプラトニックなものなのだが、何故か生まれた子供が詩人によく似ていたため夫は子供を疎ましく思い咆哮する。

|

2023年5月 7日 (日)

本351…青い麦

青い麦…コレット著

幼馴染であるフィル16歳、ヴァンカ15歳。二家族が毎年共同で借りるブルゴーニュ地方の海辺の別荘。

大人に近付きつつあるフィルは今迄の様にヴァンカに接する事が出来ない。或る日、彼は妖しいダルレー夫人と知り合いその性癖の虜となる。ヴァンカに知られまいと行動するが、ヴァンカは少しずつ気付く。ダルレー夫人は去って行き、それを望むヴァンカとフィルは結ばれるが、二人の揺れ動く思惑とすれ違いや躊躇い。甘酸っぱい淡い恋だったものの行方は…

色彩豊かな風景と迫り来る影(大人の世界)とのコントラストが描かれ、微妙である年頃の嫉妬や焦燥感・不安等が交錯する。

夫の連れ子との関係を基に著した物。

|

2023年4月22日 (土)

本350…カルメン

カルメン…プロスペル・メリメ著

バスク生まれ、真面目一方の騎兵伍長ドン・ホセ。セヴィリヤの煙草工場で働く、ジプシー女カルメン。

口にアカシアの花を咥え、腰を振りホセに近づき、揶揄いの言葉と共にその花を投げてよこす。喧嘩で相手の女を刺したカルメンを護送中、甘言に釣られ彼女を逃がしたホセは、営倉送りで一兵卒へ。その後カルメンはお礼に彼に身を任す。ホセは彼女に魅せられのめり込む。ホセは純粋に惹かれたが、カルメンにとっては遊び。

彼女に頼まれ密輸を見逃したり、カルメンに言い寄った中尉を刺殺するホセ。逃亡の為カルメン等の密輸団の一員に。カルメンの夫ガルシアが脱獄し、その後嫉妬でトランプのイカサマにかこつけ彼を殺害。カルメンは諦めとともにホセの妻となる(得意の占いで自分が男に殺されると出たが、それがホセであろうと)。

浮気なカルメンは闘牛士リュカスに心を移す。愛する相手にはとことん尽くす(気持ちが冷めた後も、兵隊との撃ち合いで重症の時は寝食を忘れて看病するなど、妻としての役割を果たす)が、冷めると元に戻らない。ホセはアメリカに渡って足を洗ってやり直そうと提案するも、カルメンは承知しない。リュカスに嫉妬しカルメンに激怒するも、剣を突きつけ涙ながらに再度アメリカ行きを懇願するが、「亭主には女房を殺す権利がある」、「殺されても二度と一緒には暮らせない」と蹴られる。カルメンを刺し殺し、亡骸を彼女の望んだ森に埋め、徴兵屯所に自首。

話しの紡ぎ手は考古学の教授で、旅の路程でホセと再会。牢屋から出られる様にとの計らいを拒否したホセは、死刑の前にと語り出す…

|

2023年4月 2日 (日)

本349…マノン・レスコー

マノン・レスコー…アベ・プレヴォ著

家柄も良く、優秀で前途を嘱望された初心で世間知らずなグリュウ。

見目は麗しく清純そうで、金回りが良い時は至って可愛い恋人なのだが、散財で相手が左前になった途端他の男に靡き後ろめたさもないマノン。

マノンの兄も関わり賭け事や詐欺にまで手を染め、何度も共々囚われの身となるが、その都度家名に泥を塗り善人チベルジュをも巻き込み、賄賂等で脱獄。若さ故か意志が弱いためか諫められれば戸惑い、マノン現れれば何もかも投げ捨て追い縋る。

パリの夜の片隅にしか生きていないような、白粉とルージュで粉飾された女でしかない娼婦マノン。

マノンがファム・ファタールであると雖も、延々と首を引きずり回されるグリュウ。

著者はグリュウでありチベルジュでもあって、自身の全青春をこの「マノン・レスコー」にぶちまけたもの。

因みに、映画化されたものとは内容がかなり異なる。

|

2023年3月11日 (土)

本348…誤解

誤解…アルベール・カミユ著

田舎の小さなホテルを経営するマルタと母親。暗い自国を抜け出し太陽の照る海辺の街で暮らすため、宿泊客を殺し金品を奪っていた。或る日、20年前に家出したマルタの兄ジャンが、身を立て母親達を救うために戻ってくる。母親と妹の悪事を知らぬジャンは、様子を見て名乗りだす積りが、羽振り良い独り者と見た二人の餌食となる。残ったパスポートに依り息子であり兄である肉親を殺してしまったことを知り、母親は絶望し息子の後を追うが、マルタは心配し訪れたジャンの妻マリアに冷たい言葉を浴びせる。

故郷の暗く灰色の生活を逃れ、南方の明るい光を狂おしく憧れる人間の三面記事の様な犯罪。マルタは自己の不条理性を、その明晰な頭脳ではっきり捉えているので、自分の行為の意味を全て知っている。誤解から兄を殺したと解かっても決してたじろがず、寧ろ昔家出した息子よりずっと傍にいた娘を置いて死にに行く母親を恨み、ジャンの妻の抱く愛や幸福の幻までも打ち砕いて、彼女は平然と死に向かう。

|

«本347…静かなるドン