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2009年12月10日 (木)

本97・・フラニーとゾーイー

フラニーとゾーイー・・ジェローム・ディヴッド・サリンジャー著

419qxiyhsdl__sl500_aa240_グラース家の末っ子である女子大生のフラニーと、そのすぐ上の兄で俳優のゾーイーを巡る、1955年11月のある土曜日の午前中から、翌週の月曜日にかけての物語。一家の次男で小説家のバディが書き続けている「散文で書かれた一家の記録映画」であると明かされた最初の作品。

「フラニー」・・晩秋の駅のプラットホームで、女子大生であり自慢のガールフレンドであるフラニーの到着を待つ大学生のレーン。二人は大学対校のフットボールの試合を観戦した後に、この週末を一緒に過ごす計画を立てている。二人はさっそく気の利いたレストランで昼食を取るが、自己顕示やスノッブ的な振舞いに何の疑問を持たないエリートのレーンに対し、青年らしい潔癖さと、自らの過剰な自意識に悩み、演劇を辞めようとしているフラニーとの会話は次第に擦れ違いを見せ始める。やがて、フラニーは耐え切れずにテーブルを離れ、店のトイレに駆け込み、バッグの中から「巡礼の道」という本を取り出し、二度目に意識を失う。

「ゾーイー」・・週末の出来事から二日後の月曜日の朝。週末を一緒に過ごすこともなくニューヨークの自宅に戻ったフラニーは、そのまま居間の寝椅子に寝込む。幼い頃からシーモアとバディという二人の兄から植え付けられた求道的な宗教哲学や東洋思想と、相反するエゴが幅を利かせる現実世界の板挟みに遭うフラニーは「巡礼の道」という本に出てくる宗教的な祈りによって救いを求めようとする。心配した母親のベシーは、5歳年上の兄であるゾーイーに助けを求める。自らも兄達の影響を強く受けているゾーイーは全身全霊をかけ説得を試みるが、「言葉の曲芸飛行士」である彼の饒舌さは時に脱線を繰り返し、ますますフラニーを混乱させる。終いには死んだ兄のシーモア会いたいと言い出すフラニーに対し、一旦話を切り上げたゾーイーは部屋を出ると、以前、二人の兄が使っていた書斎に足を踏み入れ、数刻後、バディの電話で妹を呼び出し本質を伝えたことで、フラニーは知恵の全てを把握したように今ここにある危機を乗り越え、夢も見ない眠りに入る。

異質な教育(兄弟全員が異常早熟の天才として描かれていて、フラニーとゾーイーは二人の兄から、「教育は知識の追求ではなく、禅にある無心の追求から始めることが最良」という考えから、幼い頃より宗教哲学や東洋思想を教え込まれる)を受けてきたとことが伺え、理想とする生き方と、現実世界とのギャップに苦悩するフラニーの姿を浮き彫りにしている。思春期の青年なら誰もが直面する理想と現実社会との折り合いの付け方や、更には、自らの自意識とどう向き合えばよいのかという普遍的なテーマを描く。

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